特撮の不思議

「ああ……俺はナゼ、ミニチュアをピアノ線で吊るして、着ぐるみ着て、どつき合って、花火を爆発させて、合成しただけのものに、こんなに人生を奪われているのだろう」 山本 弘 『宇宙はくりまんじゅうで滅びるか?』p.160 河出書房新社
本当に…ナゼなのか?以下は妄想(に近い)から、あまり気にしないでください。ミステリ評論家・瀬戸川猛資さんの文章で、俳優Vincent Priceの演技は、アクターズ・スタジオのスタニフラフスキー・システムでの「演じる」ではない、シェークスピア劇出身俳優における「化ける」演技に近いのでは、と考察したものがあった(手元に原本が無く、正確でない把握なら、すみません)。
古代、神や精霊の依代としての表現が(仮に憑依現象的なものだとしても)、ヒトの演技の始まり(はい、全く確証はありません)とすれば「化ける」演技形態もあると考えられる。勿論、演技方法でどちらか良いのかといった議論は、この際関係ない。
着ぐるみに代表される、「特撮」演技は、そのほとんどが、ヒトでは無い、或いはヒトを超越した「モノ」を表現する。例えば、原水爆の影響で甦った怪獣(の内面)を表現するためには、スタニフラフスキー・システムは有効では無い(当然、システムの是非については言及してない。しつこくて、すみません)。
まとめよう。「特撮」でしか表現できない事が、確かにあるのだ。それは、出来の差はあっても、人間に感動を与える。機械でしかない小惑星探査機はやぶさの帰還に、多くの人が涙したように、所謂「人間」を描く事以外でも人は感動できる。日常を越えた「特撮」に感動する事も、同じだと思うのだが、どうだろうか?